平凡な毎日。片田舎に住んでいると妙に刺激が欲しくなる。以前は東京の近くに住んでいて交通事故等が頻繁に起きていて迷惑だと思っていたが、いざそういう事が無くなると寂しい物だ。人は酷いと言うだろうか。いや、酷いと言われる以前に酷いのだ。俺が考えている事はつまり人が死ぬ事を望んでいるということだから。

   それはともかく東京の高校からこんな辺鄙な土地の大学に来てしまったせいで刺激も何もあったものじゃない。やはり第三希望の医大だからってこんなろくに調べもしなかったところに来るんじゃ無かった。

   大学の寮から十分ぐらい歩けばこの町で一番大きい大通りにでる。しかしやはり東京に比べれば狭いぐらいだ。いや、東京と比べるのが悪いのであろうか。最初に来た時は東京と違って静かで良い所だなと思ったが、今となっては刺激が少なすぎて退屈している。

   この町の中で一番大きい大通りに続き、一番大きいデパートに入る。やはり東京に比べると商品は少なめだが生活に困る事は何一つ無い。一階の食品売り場に行き、ルームメイトの藤間に頼まれた子供向けの菓子とジュースを買う。少し店員の目が気になるがしょうがない。何故子供向けの菓子を買うかと言うと、藤間と格闘ゲームをやり、負けたほうがこの店に行って子供用のお菓子とジュースを買ってくるという賭けをしていて負けたのだ。二十秒も経たずに。いつもなら俺が勝っているのにあいつは賭け事になると急に強くなる。良く分からない性格だ。

   店を出て帰路に着く。ふと立ち止まり、右手にある裏道を見る。何故だか気になったのでふらふらとその道に入って行く。俺は何故か裏道が好きだ。極偶に面白い発見があるからだ。それは近道であったり、財布を見つけたり、悪い時はいかにも不良っぽい兄ちゃん達が数名でサラリーマンを囲んでいたり。あれはやばかった。見つけたら速攻その場から逃げ出していた。サラリーマンがどうなったかは勿論知らん。

   少し歩いた所に婆さんが倒れていた。具合が悪いのだろうか。一応医大に通っているので少しぐらい診察は出来る。近づくと急に婆さんが体を起した。別に気を失っていた訳では無かったようだ。

   婆さんは昔風の着物を着ていて顔はしわで一杯だ。顔は目が細く口が尖っている感じがして狐に似ている。

「あんた誰だい?」

   突然婆さんが俺に極々普通の質問をしてきた。ああそうだろうよ。いきなり倒れている婆さんに駆け寄ったら追剥に見られるだろうよ。そういう目で見られるのは嫌いなので一応説明しよう。

「俺はそこの医大に通っていてあんたが倒れているのを見かけたからどうしたのかと思っただけさ」
「そうかい、それは悪かったねぇ。ちょっと疲れて躓いたらそのまま眠ってしまったもんでねぇ」

   普通寝るか?良く分からん婆だ。婆さんは背負っている包みを俺の前に降ろし、広げ始めた。一体何をするつもりかと思えば婆さんは何か古ぼけた物を沢山出し始めた。

「あんた優しいんだねぇ。お礼にどれか一つ上げるよ。何、別に商売しているわけでも無いから気にせんでええよ」
「いや、そんな事言われてもどれもいらねぇよ。古くて使い物にならなそうな物ばかりだし」

   そう言ったら急に婆さんが高らかに笑い始めた。一体何なんだ、この婆は。

「あんた正直だねぇ。大丈夫、これらは全部面白いものばかりだよ。そうだ、この砂時計を上げよう。ほら、とっときなさい」

   そういって婆さんは包みの中から古ぼけた砂時計を取り出し、俺に無理やり渡した。はっきり言って要らない。こんな古ぼけた砂時計など必要無い。俺はもっと新しいのを持っているのだから。

「いや、婆さん要らねぇよ。こんな古ぼけたもん」
「いいからいいから。それは面白い砂時計でねぇ。ちょっと時計を確認してから砂時計を少しひっくり返してみなさい」

   俺は婆さんに言われた通り時計を確認した。四時十五分二十九秒。そして砂時計をひっくり返す。

   一瞬、眩暈がした。その眩暈は本当に一瞬で治り、俺は婆さんを見た。特に変わったようすは無い。一体なんだったのだろうか。

「いいからいいから。それは面白い砂時計でねぇ。ちょっと」
「ちょ、ちょっと待った」

   俺は無理やり婆さんが言おうとしたことを遮った。一体この婆さんは何がしたいのだろうか。同じ事を二回言おうとしている。

「おやまあ、あんたもうひっくり返していたのかい。じゃあ時計を見てみなさい」

   婆に言われるままに時計を確認する。そして驚いた。時計の針は四時十四分五十六秒を指している。さっきは十五分を回っていた筈なのに。

「その砂時計はねぇ。ひっくり返すと時を遡ることが出来るんだ。何度も使えるから役立てておくれ」

   俺は砂時計を一度凝視して次に婆さんを見た。いや、見ようとした。婆さんは砂時計を見た一瞬の内に消えていた。一体何だったのだろうか。

   何だか急に怖くなってきたのでその裏道を回れ右をして一目散に走り去った。そして元の大通りに戻ってもう一度砂時計を見る。

   あの婆さんは時を遡ることが出来ると言った。実際そうだったのだから信じるしかない。それにしても素晴らしいでないか。時を遡るという事は誰もが夢見る事だ。あの時の自分をこうしたいとかそんな考えも持っている人は少なくない。

   ただ俺はそんな昔に戻るつもりは無かった。あの婆さんは遡ることは出来ると言ったけど未来に行けるとは言っていない。つまり俺はこの砂時計を持っていな事になってしまうからだ。

   俺は鼻歌交じりに軽い歩調で寮に帰ろうとした。その時だ。

「そこのお若いの」

   老人のような掠れた声が聞こえた。声がしたほうを向くと案の定、老人がベンチに座っている。老人の顔と胴体は老人に似合わずぷっくらと膨れているような感じがする。何故だか今度は狸に似ているなぁとも思う。

「なんだい?爺さん」
「いや、お主に不幸な相を見てな。少し気になったので止めたのじゃ」

   不幸な相だと?俺は今とても幸せなのに。そんな事ある訳ない。どうせこの爺さんも東京にいるような胡散臭い占い師だろう。

「若いの、あんたは今のところは大丈夫だが、その内きっと不幸になる。これを持って行きなされ」

   老人は俺に少し大きめのひょうたんを無理やり渡してきた。はっきり言って要らない。どうせこの後十万円でどうじゃとか言ってくるんじゃないか?

「爺さん、悪いけど俺はこんなの買うつもりはないよ。商売は他でしてくれ」
「無論、お金等要らぬ。それは必ず役に立つときが来る。どうしようも無く困った時にその栓を開けよ。さればお主は助かるだろう」

   ふ〜んと言い、ひょうたんを一度見て爺さんを見ると、さっきの婆さんのように姿形も残さず消えていた。まるで化かされたようだった。

   色々疑問に思う事もあるがとりあえず寮に帰ろう。藤間も待っている筈だ。しかしこの砂時計とひょうたんのことは話さないでおこう。



「おうやっと帰って来たか、布沼。買って来たか?」

   藤間はにやっと笑いながら俺に話し掛けた。どうやら子供向けの菓子を買ったときの店員の表情を想像しているらしい。まあ、確かに恥ずかしかったが買った後は別にどうも思わなかった。

「おう、この通り、買って来たぞ。だけどお前が楽しみにしているような事は無かったよ」
「ッチ、つまらん」

   ふざけんな。と言い掛けたが止めた。大人気ないし挑発に乗る気力もない。こいつとふざけていると体力が減る一方だ。それに多分俺が勝っていたら同じ反応をしただろう。

「おっしゃ、じゃあ次の賭けは何にする?」
「藤間、まだやるのか」
「あたぼうよ!俺が楽しめるまでやるぞ」

   つまり負ける気は全く無いと。確かに強いけど、俺だってきっと勝てるはずだ。……一回ぐらいは。って言うかこいつの運が強すぎるんだよ。いままで殆ど運の勝負で勝った事が無い。まあ格ゲーなら何度かあるけど。ん、待てよ。

「じゃあさ。ポーカーやろうぜ」
「ほほう、運勝負で俺に勝とうと言うのか。その心意気は良し。ただ現実は甘くは無いぞ」

   言ってろ。そう思いながら机の引出しからトランプを出し、何回きったかを覚えつつ、五枚づつ配って自分のカードを見る。何もそろって無い。俺はいつもこういう場合は二枚を残して三枚引くようにしている。運が良ければツーペアはいくはずだ。しかし現実は藤間の言うように厳しかった。何もそろわない。

「よっしゃ、勝負だ。見よ!フルハウスだ!」

   ざけてんな。2が三枚に6が二枚だと。そんなことがあるなど、あり得ん。このカード細工がしてあんじゃねーか。って俺か、配ったの。まあいい。今の俺にはさっきあいつが言ったことに反して非現実な力があるのだから。俺はさっき貰った砂時計をポケットから出して藤間の目の前でひっくり返した。一瞬前にあいつの疑問符が浮かんだ顔が見えたがすぐに眩暈が遅い、現実に戻った気分になる。

「ただ現実は甘くないぞ。って何だその砂時計は、いつの間に出した」
「気にするな。さあ、やるぞ」

   どうやら時間が戻ったらしく、狙い通りポーカーをやる前だ。そして俺はさっきと同じ動作をして、さっきと同じ回数カードをきる。そしてさっきとは配る順番を逆にする。

   フ、来たぜ、6が二枚に2が二枚。そしてキングが一枚。藤間が引いた後にキングを一枚捨てて一枚引く。ビンゴぉ。

「見ろ、フルハウスだ」

   勝ち誇ったように俺が見せると藤間は案の条、見せるのを躊躇った。何故ならあいつの手札には何も揃ってないのだから。

「っく、俺の負けだ。ノーペア。くそ、俺がポーカーで負けるなんて」
「フフフ、現実は甘くはないのだよ。藤間君」

   その代わり非現実は甘いのだよ。

「じゃあさっそく罰ゲーム。っと言っても何も考えて無かったな。う〜ん、保留って有り?」
「ああ、全然おっけー!寧ろそうして忘れてくれ!」

   正直すぎる。絶対忘れないようにしよう。



   その後、俺は何度かこの砂時計を悪用した。試験のテストを受けて回答を渡された後に全部覚えて砂時計をひっくり返して、後日テストで満点。校長のハゲ疑惑が巷の噂だったので確認すべく校長のかつらをひっぺがし、確認して砂時計を使う。そして俺には何にもお咎め無し。俺の嫌いなクラスメートを思いっきりぶん殴って殴り返される前に砂時計を使う。他にも色々やったが覚えきれてない。とりあえず今のところ良い事には役立てて無い。

   砂時計のお陰で気分は上々。もう何でも来いって感じだ。まるで麻薬だなと思いつつまたあのデパートへ出かける。またあの大通りに出ると東京まではいかないが、沢山の車が走っている。いかん、東京都比べる癖がついてしまったらしい。

   それからちょっとした細道───と言っても結構車は通っているが───に入って近道を試みる。ふと、少し前に本を読みながら歩いている危ない男性を発見した。別に大通りと比べて車の通りが少ないのでさほど問題は無いだろうが危険と言えば危険だ。まあ、信号も青だし大丈夫だろう。

   その男性がちょうど横断歩道の真中に差し掛かった時だ。一台の車が信号が赤にも関わらず飛び出して、俺の目の前で男性を轢いた。

   驚く俺をよそに、轢いた車は直ぐに停車し、中の運転手が慌てて出てきて自分が轢いた男性に近づく。どうやら日中に居眠り運転をしていたらしい。

   呆けているのも束の間、すぐに我に返り、集まって来た人の間を縫って轢かれた男性へと歩みよる。

「ちょっと良いですか?僕はそこの医大に通っているので応急処置ぐらいは出来ます。それから救急車はどのぐらいで?」
「こ、ここから飛ばしてだいたい二十分ぐらいです」

   遅いな。早くしなければ手遅れになる怪我だったらどうするつもりだ。とりあえず診ると、肋骨が四本、左の腕と足が骨折。右腕の骨にはヒビが入っている。まずい、内臓がかなりやられている。手遅れになる可能性は十分有り得る。

「そこのあなた。ここの近くの病院の場所、知ってますか?」

   先ほど男性を轢いた運転手に聞くと彼は一瞬何を言われたのか分からないような顔をしたが直ぐに正気に戻り、頷いた。それを確認して男性をゆっくり担ぎ上げて男の車の後部座席に横たわらせる。少し狭いが問題は無いだろう。ただ問題なのは衛生的かどうかだ。

   こちらを一体何をしているのかという顔で見ている運転手をよそに早々と自分も後部座席の狭いところに収まる。

「急がないと手遅れになる。早くその病院につれてってくれ」

   運転手はすぐに理解したようで素早く運転席に入り、車を走らせた。少し性格がとろ臭いが逃げなかっただけましだろう。

   大体二十五分ぐらい経ってやっと病院についた。男性の脈拍はかなり弱っている。誰かが連絡してくれたのか、すぐに医者の人達が来て、男性を連れて行った。

   男の手術室の前で俺と運転手の男は何故か待っていた。運転手はまあ自分で轢いたのだからいる事に問題は無いが、俺がここで待つ必要は無い気がしなくは無い。まあ、応急処置をしたという点でいる必要があるかもしれないが。

   運転手の他には少し歳を取った男性と女性がいる。恐らくというより確実にあの轢かれた男性の両親だろう。

   医者の人達が手術室に篭ってから約二時間。ランプが消えて一人の医者が出てきた。

「先生、どうでしたか?」

   すぐに立ち上がって運転手と父親らしき男が同時に医者に問い詰めた。良くドラマであるような展開だなと思いつつ、俺も医者の言葉を待った。医者は少し躊躇いがちに首を振る。そして。

「残念ですが」

   はっきりと、それでいて俺たち四人にしか聞こえないような小さい声で医者は言った。両親と思われる男女は途端に泣き出し、運転手の顔はみるみる内に青ざめている。俺は、俺はどうなのだろうか。医者は何も言っていないが、俺の応急処置とその場の判断ミスが命取りになった可能性も有り得る。青ざめているのだろうか。もしそれが問題になれば医大を退学になる可能性も有り得なくは無い。

   唇を少し強く噛み、そして直ぐに心中で自分に笑う。こんな時に自分のことしか考えられない自分に対して。

   そんなとき、自分の手がポケットの中の何かに触れた。そして気づいた時にはポケットの中に手を素早く入れ、それを引っ張りだした。そしてその砂時計をひっくり返して、もう何度も味わった眩暈にまた襲われる。

   気づいたら目の前にあの男性が本を読みながら歩いている。すぐに何時なのかを確認し、それとなく早歩きで男に近づく。そして男の少し後ろを歩いて一緒に横断歩道を渡る。そして案の定、左方向から車が走ってくる。まったく減速をせずに。

   すぐに目の前にいる男性の腕を掴み、驚いている男をよそに後ろへ引っ張る。そして俺の目の前を走る車に自分が持っている鞄を窓にぶつけると言う危ない真似をして運転手を起す。起きたかどうか分からないが、すこし走ったところで曲がったのを見ると、ちゃんと起きたらしい。

「あ、えっと」
「本を見ながら歩いていると危ないですよ。今度から気をつけて下さいね」

   何かを言おうとした男を遮り、注意する。そして男性に微笑み、手を離してそのまま礼をして当初の目的のデパートに向かう。

   我ながら良い事をしたものだと思いながらもデパートに辿りついて呆然とした。本日は定休日と書いてある。馬鹿げてる。俺が来た日に休みだと。

   無駄な時間にするものかと砂時計をひっくり返そうとしたが、止めた。時間を戻すと言う事はあの男性がまた死んでしまうと言う事だから。

   早々に踵を返し、デパートを後にする。

   その後、近くの雑貨屋に入ろうとした時だ、あっちに行けという叫び声と共に一匹の狐が店内から飛び出して言った。何事かと中に入ると、少し中の商品が床に落ちていた。

「どうしたんですか?」
「おっと、すいませんねぇ。この辺の狐は悪戯好きで多いんですよ。そのくせ狸といつも喧嘩していて迷惑してるんですよ。さて、ちょっと片付けますので五月蝿くなりますがごゆっくりどうぞ」

   はあ、と生返事してその辺の商品をざっと見る。特に面白い物は見つからなかった。しかし前に鏡を割ってしまったのを思い出してすぐに見つけたので買って帰る。

   今日はなかなか良い仕事をした気分だった。



「なんだ。今日はいつもより早いな」
「デパートが休みだったんだよ。特に用も無いのに行ったのが仇になった」
「はっ、そりゃ不運だったな」

   心底楽しそうにいう藤間。そして同時にトランプを突き出して来た。どうやらまたらしい。

「今日は負けねぇ」
「言ってろ。すぐに負かしてやるよ」

   自信満々にそういい、トランプを受け取りきる。しかし何故こいつは自分できろうと思わないのか不思議だ。いや、馬鹿だからか。

   結果は俺の圧勝。まあ当然と言えば当然と言える。

「くそ、もう一回だ。もう一回やらせろ」

   良いぞと軽い気持ちで承諾してまた五枚ずつ配る。そして今回はこっちがノーペアで藤間がフルハウス。素早く砂時計をひっくり返してもう一度配る。そして今回は、……俺がノーペアで藤間がフルハウス。

   訳が分からなかった。その後何度やっても同じ結果だったのだから。そして大体二十回ぐらいやり直しをした時だろうか。負けた後に藤間が言った。

「おい、布沼。お前、白髪なんて生えてたか?」
「え?」

   そう言われて急いで洗面所に行き鏡を見た。白髪は確かに生えている。それも一本や二本どころでは無い。まだ少ない方かもしれないが何となく気持ち悪かった。

   そのまま少し気分が悪くなったといい、部屋を出て廊下を歩くと校長とばったり出くわした。そして俺が何かにつまづいた拍子に校長のかつらに手が当たり、かつらが落ちた。

   普段なら笑い事だが俺には笑っている余裕は無かった。直ぐに校長に謝り走って逃げた。そして次に階段を下りるために角を曲がったところで俺の嫌いなクラスメートが現れた。そしてあろうことか、曲がった拍子に振っていた腕が見事にそいつの腹部に入った。一瞬俺自身も怯んだが直ぐに走って逃げた。そして逃げる途中にあることが脳裏に横切った。

   そしてそのあることは既に確実になり始めていた。砂時計で回避してきた事柄が全て起きているのだ。

   怖くなり、急いで外に出て早歩きで移動し始める。そして目の前に本を読みながら歩いている男性を見かけた。そして俺が走り出す前に男性は横断歩道の真中で轢かれた。まるでデジャビュのようだった。

   前のようにその男性に駆け寄ることはせずに心の中で絶叫しながら俺はその場から逃げ出した。

   寮に戻って驚く藤間をよそに鞄に急いで荷物を入れ始める。逃げるしかない。何処でもいいからこの恐怖から。

「お、おい布沼。一体何やってるんだ?」
「俺は逃げる。どこでもいい。誰も来ないような場所に。お前といて楽しかったけど、今は逃げるほうが先決だ」

   自分でも一体何を言いたいのか分からなかったが呆けている藤間をよそに次々と適当に鞄に詰め、洗面所に行って驚愕の叫びを上げた。

   すでに俺の顔はしわで一杯になり老けた爺さんのような顔になっている。更に黒い髪は一本も残っておらず、白髪だけになっていた。

   もう逃げる場所など無かった。この恐怖から逃げる場所など。

   ポケットから砂時計を取り出し、すぐに壊したい衝動に駆られたが止めた。もしかしたら、これで助かるかもしれない。そう思った時にはもう砂時計をひっくり返していた。

「いいからいいから、それは面白い砂時計でねぇ。……おんやまあ」
「婆さん!これは一体どういうことだ!」

   俺はかなりの時間を逆行し、婆さんに砂時計を受け取る前まで遡った。しかし老化は止まらず目の前には怪しげに笑っている婆さんがいるだけだ。

「どういうことも何もないよ。それは時を遡ることが出来るけど、後になって全て返って来る。時間も、やった事もねぇ。まあせいぜい余生を楽しむことだね。ふぇっふぇっふぇ」

   目の前にいる糞婆を殴ろうとしたが思うように腕が動かなかった。見ると腕にまでしわがあり、骨も腕も全てが老化している。

   後ろに背負っている鞄すらも重くなり、降ろしたときに思い出した。あの老人に渡されたひょうたんがこの鞄の中に入っているのだ。藁にもすがる思い出ひょうたんを取り出し、笑っている婆をよそに、ひょうたんの栓を開けた。するとどうだろう、俺と婆を煙が取り囲んだ。婆の居た方からは何だか動物の鳴き声のような声が聞こえた。

   少しして煙が晴れた。婆の方を見ると婆の居たところには何も無く、少し離れたところを見ると一匹の狐が逃げるように走り去っていた。それと同時に気づいた。自分の体が全て元に戻っている事に。

   夢だったのだろうか。そう思ったがすぐにその考えを打ち消した。なぜなら俺の手にはひょうたんと古びた砂時計が握られていたのだから。

   俺は砂時計を壊してすぐ川に捨てた。そうして大丈夫なのか良く分からないがその時はその時だ。そして何事も無かったように戻っていつも通り藤間と賭け事をして負けていつも通りの授業を受け、いつも通りデパートに何事もなく行って、いつも通り平和な日常を過ごしている。

   そしてあれ以来俺は裏路地に入る事は無かった。いつも通りの平凡が一番だから。