ふと、空を見上げてみた。
空はどんよりと曇っており、憂鬱な感じがした。
岸山 霧春はまさに自分の心境が形になって現れているようだと思った。

あの女の呼び出しだからろくでもない事だろうと分かってはいたが彼には断れない理由があった。
とても人に言えないような理由が。
だから彼はどんなに憂鬱だろうとあの女の元へ行かなければいけない。

岸山は只の会社員で34歳で妻子持ちで幸せな日々を過ごしていた。
上司に怒られることもあった。
家庭でのささやかなトラブルもあった。
友人関係で困ったこともあった。
色々大変だった事があったが幸せだった。
あの女にあの夜に出会わなければ。いや、正確に言えば出会った訳ではない。
彼はあの女にその夜会った訳でもないしあの女も彼ともう一人の人物を遠くから見ていただけであった。

しかし、あの夜から彼の人生は変わったのは事実である。
そして彼はその日に自分がしたことを怨んだ。
怨んだからと言ってこれからの人生が変わる筈も無いが彼には怨む事しか出来なかった。

岸山はチラリと右腕にしている、妻、美恵子に貰った大切な腕時計を見た。
午後10時半、会社も終わって帰宅途中に突然携帯電話が鳴り、あの女からの呼び出しを彼に告げた。
美恵子には残業で帰るのが遅くなると言ってあるから大丈夫だが、正直こんな夜遅くに何のために呼び出されたのかは彼には分からなかった。

あの女は岸山の家付近のテニススクールがあるスポーツセンターに来るように告げて電話を切った。
因みにあの女はそこのテニススクールのインストラクターをしている。

彼は家に近いと言う事で今乗っている車を置いてから行こうかとも思ったが流石に美恵子に怪しまれるのでそれはしなかった。

彼はスポーツセンターの駐車場に車を止めた。
正直、此処には女とは別の理由で来たくはなかったが入り口付近にあの女がいるのを発見したので歩み寄った。
あの女も彼が来た事に気づいていたから近づいてくる。
彼には、何故か今日のあの女の笑顔が怖く思えた。
それはこの暗さの所為かもしれない、彼は自分にそう言い聞かせた。

あの女、工藤 実冬は彼にとんでも無い事を告げた。

「この男を殺して欲しいんだけど」

彼がその言葉の意味を完全に理解したのは数分後である。




刑事、獅子川 真は別に非番でも無く、休暇を取った訳でもなかった。
しかし今、事件の現場にいる彼は機嫌が悪い。
その理由を獅子川の部下、飯塚 秀治には良く分かっている。

先程の休憩中、彼等とその他4人の計6人で不謹慎ながらポーカーをやっていたのだ。
賭ける物は全員分の昼食。
4回ほど練習の為に何も賭けないでやったときは獅子川の圧勝であった。
まさにイカサマをしたのではないかと言うほど。
しかし獅子川の悲劇は本番に起きた。
今まで絶好調だった彼はノーペアで散った。
惨敗である。

そして今、五人分の昼飯を買わなければならない事になった獅子川はこうまで機嫌が悪いのである。

「ちょっと獅子川さん、いい加減機嫌直して下さいよ」
「五月蝿い。お前に俺の気持ちが分かるものか」
「いや、それは分からなくもないんですけどね。とにかく捜査に集中して貰わないと上にどやされますよ」
「まあな。いやな時代だ」
「時代じゃなくて仕事です」

どっちも然程変わらないだろうという言葉を飲み込んで獅子川は現場となるホテルの一室を見回した。
外が良く見渡せる位の少し大きな窓、その側にはベッドがあり、そのまま壁を沿って見ていくとテレビが置いてある棚がある。
更に視線を移動させて、テレビの前のソファーを見る。
小さい穴が空いているソファーを。
ソファーにはかなり血が付着していた。
恐らく座っていた時に何物かに撃たれたのであろう。

「被害者の名前は長谷川 源三郎。ここ最近余り良い噂を聞かない金融会社の社長でその辺の恨みで殺されたのでは無いかと考えられています。鑑識によると死亡推定時刻は昨日の夜9時頃、銃弾により死亡。今他の警察の方が昨日その時刻に誰が来たかを支配人に聞いているところです」
「源三郎とは渋い名前だな。しかもいかにも悪徳業者臭い」
「何言ってるんですか。僕の話聞いてました?」
「ああ、聞いてた。どっかの馬鹿に恨みを買って殺されたんだろ?」

そう言って獅子川は飯塚の方を向く。
そして凍りついた。
飯塚の表情には笑みが浮かんでいる。
妙に凄みがある笑みが。

「獅子川さん。そんなにふざけたいんですか?」
「い、いや。俺はただ、この場の雰囲気を和ませようと……すまん」
「二人しかいない現場で雰囲気も何もないでしょう。まったく」

飯塚の笑みに更に凄みが増したので獅子川はすぐに誤った。
飯塚はいつも笑いながら怒るのだが、何故か妙に怖いのだ。
笑顔で迫られるところが怖いのか、彼から発される異様な空気が怖いのかは獅子川は考えないようにしている。

「金融会社の社長で銃による他殺。死亡推定時刻は昨日の9時頃で現在他の警察官がオーナーに聞き込み中。犯人は源三郎に深い恨みを持っていると思われる、だろ?」
「そうです。それで今から僕達もこの現場を離れて、オーナーの聞き込みの報告を聞きにいかないとそれで上に遅いとどやされます」
「何だ。現場を離れて良いのか」
「失礼。言い方を間違えました。この部屋から出て、ロビーでオーナーの話を聞きます。……仕事、辞めたいんですか?」
「辞めたいね。だが給料は欲しい」
「気持ちは分かりますがそれじゃあ只の給料泥棒じゃないですか」
「まあな」

苦笑しながら二人はドアに歩いて行く。
そしてドアを開けた瞬間驚いた。
というのもドアを開けたと同時に外から力が掛かったからである。

そこには少し小太りの人物がいた。
ただその風格から威圧感のような物を二人は感じている。
それもその筈二人はこの男を知っているからだ。
何故知っているかというと、その男は二人の上司であり、二人が勤めている警察署の署長であるからだ。

「大橋署長。どうかしたんですか?」

敬礼をしながら獅子川は大橋に何故此処に来たのかを問う。

「獅子川。突然だが我々はお前をクビにすることにした」
「は?」

突然の事に獅子川と飯塚は同時に素っ頓狂な声を上げた。
大橋はその二人の変な顔を見て微笑する。

「冗談だ。お前達が余りにも下に来るのが遅いから此方から出向いただけだ」
「ああビックリした。獅子川さんがクビになる理由に心当たりがあり過ぎて」
「飯塚、そりゃお前どう言う意味だ」
「そのままの意味です。すいません、冗談ですよ」

獅子川が拳を振り上げたのを見て咄嗟に言い繕う飯塚。
隣では大橋が笑っている。

「興味があるな。飯塚、後で署長室に来い。楽しみだ、遂に獅子川をクビに出来る大義名分が出来るのだからな」
「大橋署長、冗談が過ぎますよ」

言った後笑う獅子川の声は心なしか、乾いているようにも思えた。

「まあその話は後にして本題に入ろう」

大橋は急に顔を真剣な表情にし、脇に抱えている書類を取り出した。
一方獅子川は大橋から冗談という言葉が聞こえずに、後にしてという言葉が重く響いていた。

「さて、このホテルには幸いにして監視カメラが設置してあってな、犯人を特定できそうだ。容疑者は3人、その内二人はこのホテルに泊まっており二人ともアリバイはある。だが最後の一人はカウンターに何を言う事も無く青い顔でホテルの中に入っていったらしい」
「何だ、じゃあそいつが犯人でしょう。簡単でしたね」

既に獅子川はお疲れ様でしたとでも言うような顔をしている。

「獅子川、そこで終わらせるな。問題は動機だ。今署に連絡して調べたところ、この男、岸山 霧春と源三郎の関係は一切無い」
「ちょっとその男の写真を見ても良いですか?」

大橋は直ぐに獅子川に写真を渡した。
受け取った獅子川は写真を見るなり微笑した。
かなり悪戯っぽく。そんな彼を大橋は訝しげに見ている。

「どうした?何か分かったのか?」
「いや、何も。ただ如何にも金融会社に金を貸して貰って騙されそうな奴だなぁって。しかし何処かで見たことあるような顔だな」
「あれ?知ってるんですか?」
「知ってたら直ぐにこいつの家に押しかけて逮捕して俺の手柄にしてる。そうすれば俺の給料もアップだ」
「そう言うことは上司の前で言う事ではないな」

大橋は苦笑しながら言った。

「それにこの男の家に行っても無駄だ。先程家族から電話があって昨日の夜から帰って来ないと電話があった。現在捜索中だ」

そう言った時、大橋の携帯電話が鳴った。
直ぐに通話のボタンを押し、耳に当てる。

「大橋だ。……そうか、見つかったか。……何?……今から署に戻る。その時にちゃんと教えてくれ」

大橋は怪訝な顔をしている。
それを見た獅子川は疑問に思い、つい口にだした。

「何かあったんですか?」

少しの間があり、大橋はゆっくりと獅子川と飯塚の方を向く。

「岸山が見つかったそうだ」
「ああ、じゃあ今回の……」
「ただし」

獅子川が何かを言う前に大橋が遮った。
そしてまた少しの間を置き、口を開く。

「死体が、だ」




署について説明を聞くと、死亡推定時刻は今日の午前2時頃、死因は溺死。
見つけた場所は近くの湾で木の檻のような物に入っていたらしい。
自殺かどうかはまだ分かってはいない。

死体には妙な点が一つあった。
男の右足に火傷の跡があるのだ。
何故か右足の靴のつま先部分だけが壊れており、代わりに火傷の跡がついているのだ。
以前に跡がついたのなら良いが、家族に連絡を取ってみるとそんな跡は付いていなかったと主張している。

とにかく今は家族にもこの事を伝えないといけない事から、署に霧春の妻、美恵子を呼んだ。

署の人が説明すると、美恵子は途端に泣き出した。
あの人が死ぬ筈無い、と言いながら。

しかしそんな事は獅子川にはどうでも良かった。
事実、霧春は死んでしまったし、彼は美恵子のように何人にも泣きつかれたことがあった。

今のところの問題は霧春の死は自殺か、他殺か。
そして源三郎を殺した動機。
その三つは簡単そうで簡単ではなかった。
鑑識によると、死ぬ前に睡眠薬を飲んでいるらしいが、霧春自身が飲んで痛みが無い内に死のうとしたのかもしれない。
誰かに飲まされて海に沈められたのかもしれない。
そして動機については一つも分からなかった。
二人に接点が余りにも無さ過ぎたからだ。

しかし、それで諦める訳にもいかず、獅子川は必死に二人の関係を探すためにパソコンの前で唸っている。
そんな彼の元にコーヒーを持った飯塚が現れた。

「大変そうですね」
「そう思うなら手伝え」

飯塚はその言葉を無視して獅子川の隣に座り、机の上をあさり始めた。
上には少し古い記事が乗っている。

「何ですかこれ」
「ん?ああ、俺が結構前に担当した事件だな。不倫でストレスがたまった女が殺人とか、轢き逃げとかな」

獅子川は飯塚を見ずにパソコンを操作しながら言った。

「へぇ。あれ?この轢き逃げって解決したんですか?この記事だと犯人は不明って書いてありますが」

そこで初めて獅子川は飯塚の方を見た。
そして記事を取り上げて目を走らせる。

「ああ、半年前の事件か。確かその時間帯に帰っていた男がいたな。そいつが犯人だと思ってたんだけどな。そいつはそこと反対の道を通ったって言うんだ。そんなもん証拠が無いから嘘だとは思った。だが、そいつの帰り道に都合よくエンジン音に詳しい奴がいてな。確かにその時間帯に容疑者の車のエンジン音を聞いたって言ってた。それも偶然他の車が通りかかったのかもしれないが、証拠が無くて捜査は打ち切り。はっきり言って時間の無駄だったな」

獅子川から記事を返された飯塚はへぇ、と感嘆の声を上げた。
そして次にあっ、と驚いた声を上げる。
至近距離でその大声を聞いた獅子川は声に驚いて椅子から転げ落ちた。

「どうした?いきなり大声出して」
「獅子川さん!この容疑者、霧春ですよ!」
「何!?」

飯塚から記事を奪い取り、目を走らせると確かに書いてあった。
岸山 霧春という名前が。

「通りで見たことあると思ったんだ!飯塚!行くぞ!」
「行くって何処にですか?」
「決まってるだろ!岸山 恵美子に念のためにその時の事をもう一度聞くんだよ!もしかしたらずっと前の事が関係してるかもしれないからな!」

忙しなく出かける用意をする獅子川に飯塚は一言。

「恵美子さんならそこに居ますよ」

獅子川は飯塚の言葉を聞き、飯塚の見ている先を目で追った。
確かにいた。泣き崩れている岸山 恵美子が。




「では、その日からご主人の様子は変だったのですね」

獅子川は出きるだけ優しく言う事に努めた。
恵美子は大分納まったのか、だんだん落ち着いてきたが、まだ啜り泣いている。
しかしそれでも彼女は、はい、と肯定した。

「どんな風に変だったか覚えていますか?」
「何だか、いつも何かに怯えているようになったり、夜に突然家から出て行ってしまったり。その前まではそんな事は無かったのですが」

獅子川は恵美子が言った事を全てメモして、少し考えるように手を顎にやった。

「分かりました。こんな時なのにご協力、感謝します」
「いえ、これが事件解決の力になれるのなら」

獅子川は一旦立ち上がり、一礼して部屋を出た。

「獅子川さん、どうでした?」

出てきたと同時に右脇に少量の資料を持った飯塚が獅子川に近づき、収穫を聞く。

「まだ良く分からんな。そっちはどうだ」
「こっちも駄目ですね。いくらあさっても要らない証言ばかり」

飯塚は左手だけでお手上げのポーズをした。
それをみて獅子川は溜息をつく。

「ところで獅子川さんは第一発見者に会いに行かなくて良いんですか?」
「誰だ、その第一発見者ってのは」
「あれ?言ってませんでしたっけ?工藤 実冬。テニススクールのインストラクターです。被害者の長谷川に多額の借金を抱えていたのであの夜また返しに行ったようです。ああ、そう言えば妙な事を言ってたな」
「妙な事?」

獅子川は訝しげに飯塚を見る。
そして近くの机にどっかりと座った。

「ええ、事件の後に連絡してみると本人は知らないと言うんですよ。第一発見者本人が」
「確かに妙だな。一度行ってみるか。用意して下降りろ。俺は車まわしとくから」




工藤 実冬は今とても機嫌が悪い。
それも何故か自分が殺せと頼み、殺された人物の第一発見者になっているからだ。
確かに霧春に殺せと言ったのは自分である。
しかし頼んだ本人が第一発見者になる必要は全く無かった。

そもそも事件の日はテニススクールが終わってから昔の友人と飲んでいたので第一発見者になれる筈が無かったのだ。
しかし警察が来た時に見せて貰った映像を見ると確かに自分が映っていた。
ただし格好は違ったが。

画面の女は赤を主体とした色の服を着ているが、工藤自身赤は好まないので一着も持っていない。
即座に一人の女性が頭の中に浮かぶが、直ぐに打ち消した。
彼女は今回の事とは無関係だった筈だから。

彼女にはもう一つの苛立ちがあった。霧春には事件の後、すぐに自分の家に来るように行ってあったのに、来ないのだ。まさか自首するつもりだろうか、彼女は考えたが、警察は第一発見者としてしか彼女を見なかったので違った。

色々思案に耽って居た時であった。
彼女の家の呼び鈴がなった。
急いで玄関の前まで行き、ドアを開ける。
前には二人の男が立っていた。
二人共警官の制服を着ているところから警察官と言う事は誰でも分かる事だった。
内心嫌だったが、彼女は二人を中に通した。

「早速ですが」

この、工藤 実冬という女はどことなく岸山 恵美子に似ているなと思いながら、獅子川が始めに切り出した。

「霧春という男をご存知ですか?」

霧春、という名前に工藤は心の中で過剰に反応した。
やはり自首したのだろうかという考えが過ぎったが、直ぐに打ち消した。
獅子川はご存知ですか、と聞いてきた事から只の質問と判断した。
関係があると思っていればご存知ですね、とでも聞いているだろう。

「いいえ、知りませんが」
「獅子川さん、霧春さんは今回関係ないんじゃ無いんですか?」

飯塚が小声で獅子川に囁いた。

「一概に関係無いとは言い切れないからな。……霧春というのはこの写真の男なのですが、会った事はありますか?」

そう言ってテーブルの上に切り春の写真を置く。
工藤はその写真を手に取った。
間違いなく彼女が知っている霧春である。

「いいえ一度も会った事はありません。彼が、どうかしたんですか?」
「今回の長谷川 源三郎の殺人事件での容疑者が彼何ですが、今日、死体で発見されました」

一瞬、一瞬だけ工藤は驚愕の表情を見せた。
直ぐに戻したが、獅子川はその時の表情を見逃さなかった。

工藤は、実際此処に呼んでから口封じの為に始末しようと思っていたが、まさかその前に殺されるとは思わなかったのだ。
実際殺す手間が省けたが、誰が殺したのかという疑問が残る。

「それから、第一発見者と最初は言っていましたが今は違うとおっしゃったそうですね。では、すみませんが、その時間帯何をしていたか教えて頂けませんか?」
「その時は、ずっと昔の友人と、友人の一人の家に行ってました」
「では、その時に外に出た時はありましたか?」
「大体、12時から1時半まで一度抜けました。家にこのカメラを置いてきてしまったので」

そう言って工藤は机の端に置いてあったカメラを手に取った。
別に獅子川はカメラに詳しくは無いが、そのずっしりとした形から良いカメラなのだろうと安易に考えた。

「12時から1時半だと、ぎりぎり無理だな」
「そうですね。嘘をついてるという事は?」
「考えられなくも無い。失礼ですが、その時に一緒にいたご友人の電話番号と住所を教えて貰えませんか?後で確認をしておきたいので」

工藤は別に嘘をついていた訳でもないので直ぐにメモを取り出し、電話番号と住所を記入した。

「ご協力感謝します。……ところで、写真がお好きなのですか?」

獅子川がそう聞いたのは、部屋の至るところにテニスをやっている子供達が映っていたからだ。
中には友人と映っている写真もあるが。

「ええ、子供達が一生懸命頑張っている姿や、楽しそうな姿をとるのが好きなので」

そう言った工藤の顔には嘘偽りの無い笑顔が浮かんでいた。




「どう思います?」

工藤と別れ、車に乗り、出発した所で助手席に座っている飯塚が質問した。

「さあな。まだ彼女の友人とやらに連絡を取ってみないと分からん」
「やっぱり嘘をついているのですかね」
「それも分からん。だけどな、俺は美人を信じない性質なんだ」
「じゃあどんな人なら信じるんですか?」
「俺は誰も信じないよ」
「今度署長室に呼び出された時に言っておきます」
「頼むから止めてくれ」

情けない声を出しながらハンドルを左にきる。
すぐに目についたのは、この町唯一のスポーツセンターだった。

「此処か?工藤 実冬がインストラクターをやってるスポーツセンターは」
「そのようですね」
「ん?ああ、此処は。おい、飯塚。あそこの角を見ろ。あそこで轢き逃げが起こったんだ」

獅子川が指差した先には細い道と繋がっており、確かに人が出てきても気づかないような場所であった。
その時、獅子川の携帯が震え出した。
着信だ。
直ぐに通話ボタンを押し、耳に当てる。

「獅子川です。……はあ、分かりました。じゃあ直ぐに戻ります」

通話時間はかなり短かった。
時間にして30秒足らず。

「何かあったんですか?」
「霧春が沈んでた場所から色々興味深い物が見つかったってよ。おい、飯塚。署につく前に工藤 実冬の友人に確認とっといてくれ」
「また面倒臭い仕事を押し付けて」

文句を言いながらも飯塚は早々とメモ帳と携帯電話を取り出していた。




既に岸山、恵美子は帰っていたがやはり獅子川にはそんな事はどうでも良い事だった。
それよりも引き上げられた物の方が気になるという事もあった。

引き上げられた物は酸素ボンベ、半壊している時計、酸素ボンベに不自然に付着しているビニール袋。
そして焦げた靴のつま先部分と爆弾と思われる破片。
焦げた靴は霧春の靴と同じ物と言う事が分かっている。

そして、そのどれもがまだ新しい物と言う事が判明したらしい。

「これをどう思う?」

大橋は始めにそう聞いた。

「どうも何も、これだけ揃ってれば考えられる事は一つだけでしょう」

獅子川は2時を指している半壊した時計を手にとってそう答えた。

「後は彼らの接点に証拠ですね。久しぶりに忙しい一日になりそうだ」
「今日は快晴、我等に運を与える天気か、どうなのか」
「柄じゃない事言いますね。それに一日で解決しそうな事件なんてそうありませんよ」

大橋の横に立ち、空を見上げながら言った。
隣では大橋が苦笑している。そんな時だ。
飯塚が慌しく二人に近づいてくる。

「獅子川さん!これ、これ見てください!」

そう言って獅子川に渡した物は二枚の写真だった。
そしてそれを見た獅子川の顔は驚きの表情で一杯になっていた。

「これは一体どこに?」

目線を写真から変えずに聞いた。
いや、目線を変えたくても出来なかった。
こんな物を見せられては。

「先程此処の署の入り口に置いてあったらしいです」
「一体誰が。まあ良い、後は二人の関係だな」
「それなんですが、出勤簿を確認させて貰ったら丁度半年前のあの時間に帰宅している事が分かりました」

それを聞いた獅子川はしてやったりとでも言うように笑った。

「じゃあ、これで揃ったか?いや、一つだけあったな。轢き逃げ事件のあのエンジン音に詳しい男の家に行くぞ」




工藤 実冬は今朝も不機嫌であった。
その理由は今彼女の前に座っている二人にある。
自分が言える限りの事は全て行った筈なのに何故また来るのだろうか。
表情には出さないが、内心そう思いながら嫌気が差していた。

そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、獅子川はゆっくりと話始める。
外は今日も快晴。
しかし家の中は曇りだろう。

「突然ですが、半年前の轢き逃げ事件を覚えていますか?」

轢き逃げ事件という言葉にギクリとしたが、表情には出さなかった。
そのまま表情を変えずに、何故半年前の事件を聞くのかを疑問に思いながらも口を開く。

「ええ、私が通っているテニススクールの目の前の道路で起こった事件ですので。それがどうか致しましたか?」
「いえ、現在岸山 霧春に起こった事件を最初から全て調べているのですが、念のために、と」

確かに調べてはいるが、既にほぼ全てを調べ終わった後だったが、獅子川はその事を言わなかった。

「それで、少し調べさせて貰ったのですが、あなたがその日に帰宅した時間は11時半。聞いた話によると、随分資料や仕事が溜まっていたので残っていたそうですね。帰ってから終わらしても構わない仕事を」

いまいち獅子川の真意が実冬には分からなかった。
しかし分かっているのは、今自分は窮地に立たされていると言う事だ。
半年前の事件について自分の事をここまで調べている事から彼女はそう判断した。

「その日は練習に疲れて、帰るよりも残っていた方が良いと思ったので」
「そうですか。さて、この11時半という時間が何を意味するか分かりますか?」
「いいえ」

嘘だ。
彼女は知っている。
その時間に轢き逃げが起こった事を。

「11時半、丁度その時間に轢き逃げ事件が起きました。一部の情報によると、車は一度停車したそうです。恐らく犯人は轢いた人間を確認したのでしょう。つまりあなたはその現場を見ている筈なんです。しかしあなたは通報はしなかった。その代わりあなたはいつも子供を撮っているカメラで一枚写真を撮った。霧春が死体を確認しているところをね」

まだ言い逃れは出きる。
工藤はそう考えているが、知らず内に額に冷や汗を掻いていた。
人間の体は自分にやましい事があると本人の知らず内に反応してしまうからだ。
そして獅子川はその反応をしっかりと確認している。
しかしそれだけで何かを決め付けられるならば警察はいらないであろう。

「そしてあなたはその写真を使って霧春を脅し、長谷川 源三郎を殺した。動機としては多額の借金でしょう。調べてみれば、半年前からあなたは急に大金を払い戻しているようですね。その大金は霧春を脅した金でしょう。しかし借金は中々減らなかった。痺れを切らしたあなたは霧春に源三郎を殺せと言い、実行させた」
「……一つ、宜しいでしょうか?新聞には霧春さんが乗っていた車は実は轢き逃げがあった反対側の道路を走っていたと聞きましたが?」
「その辺も調べてみました。反対側と主張した証言者はエンジン音が逆側から聞こえたと言っていました。しかし実際は壁に反響してあたかも反対側から聞こえたように錯覚しただけだった。それからこれを見て頂きたい」

そういって獅子川は二枚の紙をテーブルの上に差し出した。

「一つはあなたが借金を月に借金を返済した金額。そしてもう一つは霧春が銀行から卸した金額。全て一致しています。偶に関係無い日に霧春は卸していますが、自分の為か、あなたの私生活用でしょう。極めつけはこれです」

そう言って袋に入った一枚の一万円札を取り出した。

「霧春が持っていたお札の控えがあったので源三郎の番号控えも確認させて貰ったところ、この一万円札が出てきました。更に数ある指紋の中からあなたと霧春の指紋を見つけました。さて今ここで聞いておきましょう。霧春に源三郎を殺させたのはあなたですね?」

直ぐに答えは出なかった。
もしかしたら他に言い逃れる方法があるかもしれない。
工藤はそう考えたが咄嗟には良い言い逃れは思い浮かばなかった。

項垂れている彼女を見据え、それを肯定と受け取った。

「たとえあなたが違うと言ってもあなたにはもう一つの殺人罪があります」
「え?」

彼女には身に覚えが無かった。
自分が誰を殺したのだろうか。
そう考えたが何一つとして思い浮かばない。

「源三郎を殺させた後、あなたは12時から1時半の間に霧春に会い、彼を殺す計画に移った。方法として、我々の推理はこうです。あなたは12時から1時半の間に彼と近くの湾で待ち合わせをし、そこでまず彼に睡眠薬を飲ませた。ジュースか何かに混ぜて、または強引に。そして眠らせた後、あなたは彼を大きな袋の中に入れ、酸素ボンベで中に空気がちゃんと入るように密封し、重しをつけた木の檻に入れて沈めた。浅い場所に沈めたから水圧で駄目になることも無い。そして袋の中には時計仕掛けの爆弾があった。彼の右足の火傷の跡はその時に出来たものです。そして爆弾が爆発した時あなたは既にご友人の家に戻っていれば犯行は無理だと思われるでしょう。後は彼の体に気泡が溜まり、浮くのを待てば良いだけだ」

ここまでの事を一気に獅子川は捲し立てた。
が、工藤はその内容を殆ど理解出来無いでいた。
自分はそんな事をしていないからだ。

「……わ、私はそんな事をしていません。それに、私がしたって、証拠はあるんですか?」

必死に搾り出した答えがこれだった。
それを聞いて獅子川は飯塚に二枚の写真を見せるように言い、飯塚は頷いてテーブルの上に二枚のいや、三枚の写真を取り出した。
飯塚はこう言う事には妙に気が利くタイプである。

工藤はそれらの写真を見て驚愕した。
一枚目は源三郎が止まっているホテルから出てくる赤い色を主体とした服を着ている自分が出てくるところ。
二枚目には、同じく赤い色を主体とした服を着ている自分が、今、獅子川が言ったような事をしているところ。三枚目は自分が取られているのに気づいてカメラの方を向いたところ。

「こ……これは一体。誰が?」
「分かりません。昨日署の前に置いてありました。そしてこれが霧春殺しの決定的な証拠です」
「違う!違うわ!私は殺していない!確かに源三郎を殺させたのは私よ!でも私は霧春を殺してはいないわ!それに私はこんな服は一着も持ってない!」

全て嘘、偽りは無かった。
しかし本人は気づいているか知らないが一緒に源三郎を殺させた事を認めている事を言ってしまっている。
どの道逮捕は免れないだろう。だが、彼女自身、今はそんな事はどうでも良くなっていた。

「話は署で伺います。署までご同行を願います」
「……冗談じゃないわ!あの女ね!一体何故!」

先程まで工藤は俯いきながら震えていたが、突然罵声と同時にテーブルを獅子川達の方へひっくり返し、獅子川達が怯んだところで外に飛び出した。

「しまった!飯塚!追うぞ!」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」

飯塚を見ると彼は今まで座っていた椅子とテーブルに挟まれて身動きがとれない状態になっていた。
数秒躊躇したが、テーブルを蹴飛ばし、同時に飯塚の頭を叩いて工藤の後を追った。

工藤が向かった先は家の前に置いてあった車だった。
すぐに乗り込み、キーをバックから取り出す。
そしてキーを入れてエンジンを掛けた瞬間。

玄関まで数秒と掛からないが、飯塚が遅れたせいでもし車やバイクで逃げられたら追いつけない状況になっていた。
しかし獅子川は諦める気は毛頭無く、急いで玄関に駆けつけた。
そして玄関を開けようとした時だ、外で爆音が響き渡った。

ドアを開け、爆音がした方を見ると、一台の車から炎が立ち上っている。既に車の原型は無い。

「飯塚!早急に消防署、及び署長に連絡しろ!」

そう言って車に出来るだけ近寄り、中を見るが、既に工藤 実冬は焼け死んでいた。




「事故じゃない?」

眉間に皺を寄せ、大橋は訝しげに獅子川を見る。

「いえ、可能性の話です。彼女は最後まで霧春を殺したのは自分じゃないと主張したところから多少不自然と思われます。更に殺害現場を写真で見られたのならばどうにかしてその写真を処分するか、またはどこか遠くに離れていた筈です。しかし彼女はそうしなかった。それから、最後に彼女は興味深い事を言っていました。あの女、と。これらの事から事故ではなく、他殺の可能性もありえなくは無いということです」

獅子川の推理を聞き、大橋は低く唸る。
他殺と言う可能性も、事故と言う可能性も、両方ともまだ証拠も無く、調べの結果も出ていないからだ。

もし他殺というのならば、誰が何のために殺したという疑問も湧いてくる。
大橋がそう考えている時だ、受けうけの女性が近寄ってきた。

「獅子川さん飯塚さん、岸山 恵美子さんという方が至急家に来て欲しいと言っておりますが」

二人の頭の上には疑問符が浮かんでいた。
何故今ごろ被害者の家族に呼ばれるのか。
しかし至急、というところから有無を言わせないような気がしていた。

「今から行きますと伝えといてくれるか?飯塚、行くぞ」

飯塚を急かした割にはゆっくりと用意しながら獅子川は外に出て車に乗り込む。




その家は只の一般住宅で大きいとも小さいとも言えず、普通の大きさと言えるだろう。
岸山家の前の道はお世辞にも広いとは言えないが、他に止める場所が無いので獅子川はとりあえず出きるだけ道路脇に近付けて止めた。

飯塚が壁のせいで出難そうにしているが無視して玄関に近づく。
飯塚も文句を言いながら後に付いて来た。
インターホンを押し、反応を待つこと数秒、家の奥から返事が聞こえてきた。
それから足音が近づいてくるのが分かる。

ドアが開くとそこには当たり前だが岸山 恵美子が居た。

「突然呼び出してしまってすいません。どうぞ上がって下さい」

そう言って彼女は二人を中に促した。
二人も失礼しますと言いながら靴を脱いで上がった。
その後リビングルームに通され、座布団が敷いてあったのでそこに三人は座った。

獅子川はその時ガソリンの匂いがするのに気づいたが、他人の家でガソリン臭いですねと言うのもどうかと思ったので口にはださなかった。
飯塚も同様である。

「それで、今回はどのような用件でしょうか?」

始めに獅子川がそう切り出した。
恵美子はニッコリと微笑んだまま少しお待ちをと言って二階へ上がってしまった。

一体何の為に呼ばれたのだろうかと疑問に思いながらも出されたお茶を飲んで部屋を見渡す。

特に変わった物も無く、面白くも無いので飯塚に話しを振る。

「このガソリンの匂いは何だと思う?」
「何でしょうね。外を見ても特にそう言った類の物を使っている人は見られませんし。まあ、気にしなくても良いんじゃないですか?」

楽観的と言えば楽観的な発言だが、何も分からない以上何をしても無駄な事は分かっていた。

「ところでだ。今此処に来る途中気づいた事があったんだがな」
「何をですか?」
「いやな、工藤 実冬の友人宅から霧春の死体が上がった湾と、片道でどれだけ掛かると思う?」
「さあ?」

曖昧な返事、飯塚は特に何も気にしていない様子である。
外を見ると何時の間にか曇っていた。少し、嫌な予感がよぎる。

「俺は地理に詳しい訳じゃないけどな、今整理してみるとあそこは片道で飛ばしても1時間掛かる。これがどういう意味だか分かるか?」

その言葉にどうやらやっと重大さが分かったらしい、飯塚はハッとして獅子川を見る。

「片道が1時間って、それじゃあ12時から1時半までの間に戻るなんて無理じゃないですか」

獅子川が口を開きかけた時だ。
恵美子が出て行ったドアが突然開いた。
そこには赤い色を主体とした服を着ている工藤 実冬、いや、岸山 恵美子が立っていた。

「その通りよ、そして夫、霧春を殺したのは実冬じゃないわ」

突然の出来事に二人は開いた口が塞がらなかった。
それは恵美子の発言もあるが、彼女の姿は工藤に見せた三枚の写真の工藤 実冬その人だからだ。

「これは、一体」

二人には良く理解出来ていなかった。
今目の前にいるのは岸山 恵美子なのか、それとも工藤 実冬なのか。
どちらか分からなくなるほど似ているのだ。

「揚羽蝶をご存知ですよね」

今度は突然話が飛んだ。
獅子川達が返事をする間も無く彼女は続ける。

「揚羽蝶はその外見の美しさ故に子供達には大変人気があります。紋白蝶も同じように子供に人気があります。しかし幼虫の時はどうでしょう。大人も子供も気持ち悪いと思うだけじゃないでしょうか」

その微笑んでいる目は何故か冷たく、何が言いたいのか、真意を読み取る事は至難の業である。

「しかし幼虫は、繭に篭り、繭を破ると愛される蝶になります。つまり繭とはより美しくなる為の物。私たちも同じだと思いません?」
「ちょ、ちょっと待って下さい。そんなことよりご主人を殺したのは工藤 実冬では無いと言いましたが、あなたは誰が殺したのか知っているのですか?」

恵美子はその微笑みを崩さずにゆっくりと二人に近づいてきた。

「ええ、勿論しってます。夫と実冬を殺したのは私ですから」
「え?」
「あなた達が推理したような行為をしましたが、あれは実冬をより美しくする為にやった事です。あの夜、実冬がカメラを取りに戻るのを確認してからあの湾に向かい、夫を呼び出しました。そこからは獅子川さん、あなたが推理した通りにやり、カメラを使ってこの姿の私を撮りました。そしてそれを警察に渡し、実冬は自分の身に覚えが無い、訳の分からない恐怖に潰されそうになりる。それが目的でした」

彼女が言った事を二人は理解出来なかった。
そもそも美しくするという事が分からないからだ。

「動機は、動機は何だというのですか?」
「実冬を殺した動機は今言った通り。夫は、私は夫が脅されているのを知っていました。しかし別にそんな事はどうでも良かったのです。夫は家ではお金にケチな人でした。銀行の貯金を少し使いたいと言っても直ぐに駄目出し。更に不倫の疑惑まで出てきたのでいい加減頭にきていました」

彼女はそこで初めて表情を強張らせた。

「そんな時に実冬が夫を脅してお金を強請っているのを知りました。そこで私は実冬に強請っている事をばらさないから、変わりに夫から強請ったお金を少しくれるように言いました。彼女には全く不利益は無いので直ぐに了承しました」

そこで一息付き、彼女は座布団の上に座った。

「獅子川さん、飯塚さん。私は蝶と人間はとても似ていると思っています」
「は?」

いきなり話が違う方向に言ったのでつい間抜けな声が二人の口から漏れた。

「人間はいつも、つまり今私たちが普通に生活している時は只の幼虫、そして恐怖が人を覆い尽くす時、その時が幼虫が繭に篭った時。そして羽化して美しい蝶になる時、それは恐怖という繭から開放された時、つまり死んだ時では無いでしょうか。つまり恐怖という繭に篭り、死という事柄で繭を破れば人間は真に美しくなれるのです」

普通じゃない、そう獅子川は思った。
説明が終わった後に獅子川と恵美子の目が合った。
獅子川は背中が凍りついたような感覚に襲われた。
瞳に全く感情が篭ってないように見えたからだ。

「夫もさぞかし美しくなったとおもいますわ。あの睡眠薬は少量でしたから多分10分位で起きたでしょう。しかし起きたときは海の中、どんな状況か分からない恐怖に陥ります。それから私は昨日最高傑作を作りました。今お見せします」

そう言ってテーブルクロスを剥ぎ取った。
そしてそこにある物を見て二人は叫びながら一歩下がった。

テーブルは気の淵にガラスの板が引っかかるようになっており、テーブルの内部が見えるようになっている。そしてそこには一人の女の子が居た。
否、死んでいた。手と足と腹部にそれぞれ杭のような物が刺さっており、見ようによっては標本のようにも見える。

「私の娘です。どうですか?娘はとても美しくなっているでしょう?」

普通の人間の感覚を持っていればそれは美しいとは思わないだろう。
出きるだけ見ないようにして二人は一歩、二歩と下がって行く。

「それから、あな達は今回の事件を解決したのでご褒美を上げようと思っているの。それはね。私と一緒に美しく、恐怖と言う繭から出ることよ」

そう言って恵美子はポケットからライターを取り出した。
火を付けるとそれを壁に放った。
火は壁に引火し、次々に燃え移っていく。
普通ならそれだけで燃える筈は無く、ライターの火が消えて終わりだろうが、壁にガソリンが塗ってあったのか、早いスピードで物に燃え移る。
既に玄関に通じる通路は炎で突破出来そうに無かった。

「くそ!飯塚!そこの窓から突き破って出ろ!」

既に窓の前にも炎が塞いでいるが、勢いを付けて窓を突き破ればなんとかなるだろう。
獅子川はそう考えていた
。飯塚も異議は無いのか、迷わずに炎の中に突っ込んで行き、窓を付き破って外に出た。

獅子川も直ぐに続こうとしたが、一度恵美子を見てみる。
また背筋が冷える感覚に襲われた。

彼女は笑っていた。声を上げて、逃げ惑う弱者を見るように。

そんな彼女から目を逸らし、獅子川も窓を突き破って外に出た。

消防車が来たのはそれから20分後の事である。




次の日、獅子川はその事件の後始末に追われていた。
まさかマスコミにサドだ何だと言うわけにもいけないので適当に誤魔化したり、その事件の書類の整頓などだ。
すぐに終わるだろうと高を括っていたが、朝8時から初めて終わったのは午後4時頃だった。

仕事が終わり、それが終わったのなら帰っても良いと言われていたので早々と買える用意を揃える。
そこに飯塚が現れた。

「仕事終わったんですか?」
「ああ、やっと終わったよ。それより、これから一杯どうだ?」

笑いながらそう聞く獅子川に飯塚は意味ありげに微笑んだ。

「申し訳ありませんがこの後所長室に来るように言われてますので、ご遠慮させて頂きます」
「な、何!?まさか!」
「おお!飯塚!そこにいたか。あの話だが、やはり署長室に呼ぶのは止めたよ」

突然割り込んできた大橋署長の言葉に安心する獅子川、驚く飯塚。
そこで大橋は微笑んで飯塚の肩に手を置く。

「所長室という堅苦しい場所ではなくもっと良い所に行こうじゃないか。近くに上手いフランス料理の店を知っているのだが、どうかな?」
「ええ、それはもう喜んで」
「そこでじっくりと話を聞かせて貰おうじゃないか。なあ獅子川」

急に話を振られた獅子川はハァとしか答えられなかった。
心なしか大橋と飯塚はニヤニヤと獅子川を見ながら笑っている。

「さあ、行こうじゃないか」
「はい、署長」
「ちょ、ちょっと待て!署長!飯塚ぁ!」

飯塚と大橋は部屋を出て行き、彼の声は虚しく部屋に響き渡った。
周りはご愁傷様とでも言うような表情で彼を見ている。
だが全員、目が笑っているのを彼は即座に感じとった。

ふと、空を見上げてみた。
空は曇り、彼の今の心境というよりも彼の近い未来を指しているようであった。









後書き