目を瞑る前に聞こえたのは五月蝿く響く音と風の音。
見えた物は真っ青な空。
そして目を閉じれば漆黒。
それは当たり前だが。

目を開ける。
自分の目がおかしくなったかと思った。
目を開けても間の前は漆黒だった。
前後左右に加えて上下を見ても漆黒。
自分の体さえ見えない。
が、感覚はある。
右腕を動かそうとすればちゃんと動く感覚があり、体が自由に動いている感覚がある。
ただ奇妙なのは自分が浮遊している感じがしている事だ。

「何なんだ。ここは」

誰に言うでも無く呟いた。
その瞬間吹き抜ける風。
いや、風と言うのが正しいのか分からない。
悪寒かもしれなかった。
とにかく体に冷たい何かが触れたような気がした。

次に感じたのは重力だ。
先ほどの浮遊感とは違い、全身に掛かる重み、足がどこかに着いている感覚。
しかし漆黒の闇は未だに晴れなかった。

「迷宮の入り口へようこそ、志摩 徹君」

どこからか声が聞こえてきた。
それを前後左右のどこからかと聞かれても分からない。
強いて言えば全体から反響しているような感じだ。
目を凝らしてみても漆黒は晴れず、何も見えない。

先ほど言われた事を考えてみる。
迷宮の入り口。
いつ来たのか分からないがどうやらその迷宮とやらを彷徨わなければいけないのは分かる。

そして志摩 徹。
おそらく自分の事だろうが、全く思い出せなかった。
何故だか自分の名前が思い出せない。
それどころか以前の事、つまり目を閉じる前が全く思い出せない。

「おやおや。思案に耽ってしまっているね。ここがどこだか分からないのからかい?僕が誰だか分からないからかい?それとも、自分の過去が全く思い出せないことかい?」

そう言って声は笑った。
こちらとしては不愉快だが、どうやら声は何故記憶が無いのかを知っているらしい。

「全部だ。ここはどこで、あんたは誰で、俺は何故ここにいる」
「さっきも行ったようにここは迷宮。僕の事は言えない。君が何故いるか。君はこのゲームを受けることが出来るからだよ」

ゲーム、ゲームとは一体何なのだろうか。
そもそも受けることが出来ると言う事自体良く分からない。

「そのゲームとは一体何だ?」
「簡単だよ。この迷宮を彷徨って、ゴールに辿り着けば君はここから出られる」

ゴールに辿り着けば出られると言う事は、逆に言えばゴールに辿り着けなければ出れないと言う事だろう。
しかし分からない。
出る為にするゲームならメリットが何も無い。
それにこんな真っ暗な場所は見たことも無い。
ここが現実なのか、それとも夢なのか。

「このゲームのメリットは何だ」
「ここから出られる事。それにしても、君かなり冷静だね。大抵の者は僕の気が狂いそうになるほど質問してくるのに」
「何も分からないで冷静にならなければ頭に入る物も入らない。それに、俺が一番聞きたい事は多分、教える気は無いだろうからな」

また笑い声が聞こえる。
普通の笑い方なのだが、何故か癇に障る。

「さて、とりあえずゲームの説明に入ろうか。と言っても少ないし、殆ど必要もない事だけど」

ゲームの説明、ルールがやはりあるのだろう。
しかし迷宮にルール等あるのだろうか。
ただ出るだけならルール、と言うより注意点では無いだろうか。

「一つ目、ここから出る為に君はこの中を彷徨わなければいけない。しかし道を間違えると君は死ぬ」
「死ぬ?」

無理やりかどうか知らないが、本人の意思では無くここに来たのに間違えれば死ぬと言うのはどう言う事だ。
それならこのゲームを受けない方がマシだ。

「そう、死ぬの。だけど一回だと殆ど出れる見込みが無いから、五回まで生き返る事が出来る。テレビゲームとかだと命の数があるでしょ。あれと同じ」
「待て、五回まで生き返る事が出来るだと。そんな事は有り得ない」
「そうだね。でもそれは説明出来無いから自分で体験した方が早い」

体験と簡単に言うが、死ぬ事に対して誰しも恐れはある。
死なない方が良いだろう。
いや、死ぬ、死なない以前にまずこのゲーム自体が理解出来無い。
本人の意思では無いのに関わらずゲームを「受ける事が出来る」事。
ゴールにつけばここから出られると言うが、このゲームを受けなければここに来る事は無かった。
それから、声の言う事を聞いていると、おそらくゴールに着けなければ死んでしまうだろう。
メリットは無い。
デメリットしか無いと言って良いだろう。

「二つ目、ゴールに辿りつけなければ君は死ぬ」

やはりゴールに辿り着けなければ死ぬらしい。
つまり命がけでゴールを探せと言う事なのだろう。

「三つ目、このゲームを降りることは出来る。だけど降りた時点でここから出る事は出来ず、ここで一生彷徨う事になるか、死ぬ」

デメリット尽くめだ。
デメリットしかないゲームをすると言うのはかなり不愉快だが受ける他に選択肢は無いだろう。

「四つ目、このゲームは時間制限がある。君に残された時間は後六時間弱」
「六時間だと。何故それを先に言わない」

苛立つ。
理不尽なゲームに理不尽なルール。
全てに嫌気が差す。

「時間制限の事はね、最初に言うと後の説明が絶対頭に入らないから。さて、ルール説明も終わったし、ゲームを開始しよう」

そう言った途端、足元に変化が訪れた。
足元に光りが差し込み、アスファルトの地面が見える。
そして瞬く間に光りは広がり、一つの街が姿を表した。
暗く、洞窟なような迷宮だと思っていたが、違ったようだ。
周りを見渡すと高いビルが聳えている。
しかし妙な事に車が走る音も、人がいる気配も全く無い。

「君の人生で最大のゲームの始まりだ。さあ、この迷宮を彷徨って、ゴールを見つけるんだ」

その言葉を聞いて、足を一歩踏み出す。
靴と土が擦れる音がした。
風が吹き、髪が乱れる。
空を見上げると太陽が眩しくも輝いている。
全てが現実に思える。
しかし静かな街が現実とは思えなくしている。

「グッドラック」
「余計なお世話だ」

毒づきながら歩きだす。
さきほどいた場所は裏通りだったらしく、狭かった。
表通りになると周りが良く見渡せる。
店も多々あり、普通なら人が混んでいるだろう。
しかし今は人の姿は無く、静まり返っている。

いきなり左右に道が分かれている為どちらに行けば良いのか迷う。
その筈だったが体は何故か左へと進んで行く。
自分はこの場所を知っているのだろうかと言う疑問が湧くが全く思い出せない。

暫く歩いていて、律儀にも横断歩道を渡っている時だ。
右側から音が聞こえ、右を見ると、一台の大型車が迫ってきていた。
運転手がいないのが奇妙だと思いながら避けようとするが、反応が遅れたせいで間に合わない。
鈍い痛みが全身を襲う。
全身の骨の全てが粉砕されたような、それでいて神経全てを圧迫される感覚。
地面に落ちたときは痛みで絶叫すら出なかった。

痛みに悶え、目を開けた時、そこはまた漆黒だった。
気づけば痛みも全く無くなっている。
立ち上がり自分の体を確認しようとしたが姿が見えない為にどうなっているか分からない。

闇のどこからか、控えめな笑い声が聞こえてきた。

「もう死んじゃったんだ。君はつくづく不幸な人だね。ああ、それからもう一つルールを言い忘れていたよ。一回死ぬごとに僕はヒントを言うから。それを頑張って考えてゴールに辿り着いてね」

嫌味の一つや二つ言われたような気がしたが受け流す。
それよりも今はヒントの方が大事だからだ。

「君はゴールを見つけられないんじゃない、ゴールを忘れているんだ」
「は?」
「それだけ。頑張って」

本当にそれだけ言うと声は消え去り、先ほどと同じように自分を中心に回りが見えるようになっていく。
ゴールを忘れていると言う事はやはり自分はこの場所を知っているのだろう。
記憶が無い為に思い出せないが、とりあえず彷徨うしかないだろう。

もう一度、先ほどの道に出る。
先ほど違う道だと思っても自然と体が勝手に動いていくのだ。
それはもしかしたら違うかもしれない。
しかし頼る物が無い以上その通りに進むしか無かった。

そして先ほど轢かれた横断歩道の目の前まで来た。
右を見て、ずっと先を見ても車がいる様子は無い。
左もまた同様だ。
それでもまだ不安はあるが、意を決して渡り出す。

右側から音が聞こえた。
神経を張り巡らせていた為、来た途端に前方に強く踏み出す事が出来、車に轢かれずにすんだ。
やったと思い後ろを振り向く。
驚く事に車は一台も通っていなかった。
しかし車を避ける際に右を見たら確かに車がいた。
それどころか一瞬だけ人々が見えた気さえした。
しかしどうだろう。
後ろを向くと、人々どころか、車さえ見つからない。
狐につままれた気分だ。

制限時間がある事を思い出し、思案に耽る事を止め、体の赴くままに歩き出す。
横断歩道を過ぎ、まず目に入ったのは高層ビルの設立途中と思われる工事現場だ。
骨組み程度しか終わっておらず、今はまだ完成した姿を思い浮かべる事は出来無い。
筈なのだが、自分には多少だが、想像、いや、想像と言うには、はっきりし過ぎている。

気づけばそのビルの近くまで来ていた。
考え込んでいた為に気づかなかったのだろうか。
しかし何故このビルに近寄るのだろうか。
そんな事を考えながらもビルの周りを歩く。

裏路地のような狭い所だと、ビルが影になり、暗く、涼しい。
上を見上げると、影になっているからか、ビルは先ほど見た時よりも高く思えた。
その時、何かが視界に入った。
細くて、小さい物が降ってくる。
そう思えたのだが、それは間違いだった。
小さく見えたのは上空高くからだったからで、振ってきたのは、太さは人間の頭より少し大きい位で、長さは恐らく3メートル位だ。
それは鉄骨だった。

呆けていて、ハッと気づいた時には鉄骨はすぐ近くまで迫って来ていた。
急いで前方へ前転のように避け、鉄骨の落下位置を確認する。
鉄骨は先ほどまで自分が立っていたところに突き刺さった。
それだけで突き刺さった振動が自分に届く。
頭に当たっていたら間違いなく首から上が無くなっているだろう。

当たらなかった事に安堵し、立ち上がってズボンについた埃を掃う。
その時、頭上から何か声がしたような気がした。
霞が掛かったような声だが、人がいたのかと思い上を見上げる。

真上にはもう一つ落ちて来ていたのであろう、鉄骨が一本自分に向けて落ちて来ていた。
避ける間も無く、鉄骨に押しつぶされる。
鉄骨は頭に当たり、自分の体が崩れ落ちるのと同時に自分の体を半分に分けていく。
苦痛すら感じさせないほんの一瞬の事。
その一瞬が妙に遅く、痛みが全身に伝わり、またもや声にならない悲鳴、いや、絶叫を上げる。

目を開けると、そこはやはり暗闇だった。
どうやらまた戻って来たらしい。
頭を触ってみるが、何ともなって無く、頭の感触があった。
勿論痛みは無い。

「また死んじゃったんだ。このままじゃ本当に死んじゃうよ?」
「五月蝿い。さっさとヒントを教えろ」

あの痛みを思い出すとゾッとする。
一瞬の出来事にも関わらず、今でもしっかりと痛みや、その情景が思い出せるのだ。
下手したら精神崩壊を起してもおかしくは無い。
ただこの声の気楽さでほんの少しだが、救われるような気がした。

「せっかちはもてないよ。ほら笑って笑って」
「良いから早く言え」
「笑ったら物凄く気持ち悪いと思ったんだけどな。まあ良いや。ヒントね」

何やら皮肉を言われたようだが、自分で想像すると確かに気持ち悪いので言い返す気になれない。

「ヒント2、君に必要なのは『きっかけ』だよ」
「きっかけ?何のだ」
「それを教える訳にはいかなくてね。じゃあ頑張って」
「ちょっと待て」
「何?」
「これはあくまでもゲームだ。なら途中からスタートでも良いんじゃ無いか?」

提案に対しての答えはすぐに返っては来ず、数秒の間が開く。

「そうだね、良いよ。命を賭けたところでゲームはゲーム、コンテニューと言う事で」

そう言い終わるが早いか、また自分を中心に視界が見えていき、立っている場所を確認する。
一番初めに引かれた場所だった。
横断歩道は渡っており、早々に設立途中のビルまで急ぐ。

そしてまたやって来た。
先ほど落ちた鉄骨は見当たら無い。
どうやら落ちた鉄骨まで元の場所へ戻ったらしい。

いっきに走ってしまえばいいのだが、体が走ろうとしない。
一歩一歩と鉄骨が落ちて来る場所まで近づいて行く。
風を切る音に気づき、上を見上げると既にすぐ側まで鉄骨が接近していた。
先ほどと違う事に多少戸惑うが、避ける準備はしていたので直ぐに前方に転がる。

「危ない!」

声が、聞こえた。
いや、頭に響いたのかもしれない。
とにかく危ないという声が聞こえ、上を見上げる。
先程と同じようにもう一つの鉄骨が落ちて来ている。
避けられない。
そう思いながらも何かが頭に引っ掛かっている。

体に衝撃が伝わる。
その衝撃は鉄骨による物では無く、突き飛ばされたような。
巨大な音で我に返り、うつ伏せの状態から起き上がり、後ろを見る。
自分が立っていた場所に鉄骨が落ちていた。

何故避けられたのかは分からなかった。
諦めかけていた一瞬の内に鉄骨が落ちて来る位置から移動していたから。

先程から何かが頭に引っ掛かる。
自分に伝わる衝撃、その前に見たのは、人のような気がした。
その空間だけ歪んで見えたので定かでは無いが。
そして一番謎なのは、自分はこの事を知っているような気がしたからだ。

車で撥ねられそうになった時も感じた感覚。
疑問は尽きないが考えても仕方ないので立って歩き始める。

時間は分からないが、十分ほど歩いた後についたのはどこかの大学。
こんな所にゴールがあるとは思えないが体が勝手に進んで行く。
無人の大学に入り、階段を上る。
そしてやって来た場所は屋上の入り口だった。

ゆっくりとその扉を開ける。
重い金属音と共に扉は開けていき、扉の向こう側が姿を現し始める。
開ききり、外に出ると風が吹いた。
そこである人物を見つけた。
制服からして女である事が分かる。
問題はその立ち位置だ。
彼女は柵の向こう側に居て、一歩足を滑らせれば落ちてしまうであろう。

恐らくは自殺をしようとしているのだろう。
止めようとして一歩踏み出そうとする。
体は確かに彼女に近づこうとするのだが、何かが拒否する。
それは漠然としていて何かは分からない。
先程からずっと気になっているこの感覚。

とにかく死なせる事も出来無いので拒否する何かを無視して歩み寄る。
ふと、違和感に気づいた。
今更と言っても良いが、自分以外に人がこの世界にいる筈が無かった。

数秒考え、二つの答えが出た。
一つが、自分を死なせようとする罠。
もう一つがこの迷宮のゴール。
恐らく後者はかなり低い確率だろう。
だが、ここに自分以外に人が存在していると言う事は、もしかしたら、とも考えられた。

一種の賭けのような物だが、もし出れるのなら、と考え再び近づいて行く。
もし死ぬかもしれなくても、もしかしたら回避出来るかもしれない。

「止めに来たの?」

全身がビクリと震えた。
確かに足音はたてていたが、まさか声を掛けられるとは思わなかったからだ。

「そうだが」

そう言った自分にまた驚いた。
自分は半ば混乱していて何を言えば良いのか分からなかったのに何故か言葉が出てきたからだ。

「私の事を知らないのに止めに来たの?あなた馬鹿じゃない?」

彼女の台詞にムッとする。
いきなり馬鹿呼ばりされる覚えは無いからだ。
何かを言い返そうとした時だ。

「待った、私は留まる気は無いわ。これからグダグダ言われるのも嫌だから、もう逝くわ」

一体何を言っているのか分からなかった。
自分は何も言っていないのに話が勝手に進んでいる。
それに、最後の言葉が何度も心の中で反響している。
その言葉を理解し、彼女の元へ走り出した瞬間だった。
彼女は屋上から飛び降りた。

「クソ女」

短く毒づいて柵を右手で掴み右足でアスファルトを蹴って柵を越える。
右手を離して落下中に柵の一番下を掴み同時に彼女の左手を掴む。
彼女は感情を感じさせない目で自分を見てくる。

「どうしても殺させない気?じゃあ」

彼女は両手で自分の手を掴み返して来た。
端から見れば俺を引っ張ろうとしているように見える。
いや、見えるでは無く、その通りだった。
彼女は両足を校舎の壁に付け、思いっきり蹴った。

「一緒に死んで」

ゾクリとした。
先程と変わら無い感情の無い目。
そればかりか声までもが冷たく響き、背筋に悪寒を感じさせる。

手に冷や汗が流れ、柵から滑るのも時間の問題だろう。
いくら女だからといってぶら下っている人間一人をこのまま引き上げるのは無理があった。
このまま彼女の手を離してしまえば自分は助かるだろう。
だが、離す事が出来無い。
更に、彼女は自分の手をしっかりと握っている。

そうしている内に、手が滑り、柵を離した。
彼女に引っ張られ、頭から落ちていく。
初めての浮遊感覚を不快に思いながらもゆっくりと世界が動いていくような気がした。
下を見ると、地面はすぐそこにあった。
地面にぶつかった時に聴いた音は、首の骨が折れる音だった。

一瞬感じた激痛はすぐに無くなり目を開けるとやはりそこは漆黒の世界だった。

「もう三回目だよ。残り二回、君は出れるかな?時間も余り残っていないし、次のヒントを言わして貰うよ。ヒント3、ゴールはこの世界に存在しない。だけど確実にゴールはある」

一瞬耳を疑った。
ゴールが存在しないと言う事は何の為に自分はいままでこの世界を彷徨っていたのか分からなくなる。

「ナゾナゾみたいな物だよ。そうだね、おまけと言っちゃ何だけど、もう一つ、この世界はいつでも変化出来る」
「……もっと分からなくなったのだが」
「そこまで面倒見きれないね。じゃ」

一方的に会話を止められ、直ぐに周りが見えるようになった。
薄暗い裏通り。
右を見ると建築途中のビルがあり、後ろを見ると鉄骨が、落ちてはいなかった。
一番最初の車の時と同じだろうと思い、大学へ向かう。

場所ははっきりと記憶しているので早々と屋上へと向かう。
そしてまた重苦しい金属製の扉を開け、彼女の姿を確認した。
先程死ぬ間際に見た、首の骨があらぬ方向に曲がった彼女では無く、どこにも異常は見られない姿を。

一歩一歩近づいて行く。
その間に感じる懐かしさ。
これは先程までは感じなかったものだった。

「止めに来たの?」
「そうだが」

先程とは違い、直ぐに答える。

「私の事を知らないのに止めに来たの?あなた馬鹿じゃない?」
「これから飯食うのに目の前で死なれたら気分が悪いだけだ。それに」

先程とは違う台詞、だがどこかで行った事がある。
今まで疑問に思っていた事がやっと分かった。

「待った、私は留まる気は無いわ。これからグダグダ言われるのも嫌だから、もう逝くわ」
「何度も同じ事しやがって、芸の無いクソ女が」

自殺するのに芸があっても困るが、他に言う言葉が咄嗟に思い浮ばなかった。

先程とは違い、落ちる事が分かっていたので落ちる前に止められると思っていたが、実際距離が開けていてやはり彼女は屋上から飛び降りてしまった。
咄嗟に柵を飛び越えようとする、が、そこで止まった。
このままでは先に死んだ時と同じ事になってしまう。
ならばこのまま、見殺しに。

「意気地無し」

下の方で、何かがぶつかる音が聞こえたような、聞こえなかったような、良く分からないが耳に何かの音が聞こえた。
最後に彼女は笑っていた。
嫌味を最後に言って、見下すように笑っていた。

「クソ女ァ!」

叫んで校舎まで走る。
こんな所にいては感覚がおかしくなる。
もうこんな場所から離れたかった。
一心不乱に大学から出ようと校門まで向かう。

体力を一気に使ったせいか、何かは分からないが気づけば下駄箱に凭れていた。
息を整えながら手を額に持っていく。
何故か涙が出てきていた。
恐怖では無く、悔しさの。

「チクショウ。……っざけんじゃねぇよ!」

額に持って来ていた手を握りこぶしに変え、下駄箱を乱暴に殴る。
鈍い音が校舎に響いた。

心を落ち着かせ、顔を上げるとある物に気づいた。
下駄箱に名前が書いてある。
それは当たり前の事なのだが問題は書いてある名前だ。
志摩 徹。
声から聞いた自分の名前。

「やっぱり、此処は」

次の言葉を言わずに校門ではなく、校内に向けて歩く。
速度は次第に歩きから早歩きに、早歩きから走りへと変わっていた。
やってきた所は2−Bと書かれたクラスの前、ドアに肩をぶつけながら教室の中へ入る。
教室内を見渡し、瞬きをした瞬間、一瞬だけ教室に人が沢山いるのが見えた。
しかしそれはほんの一瞬だけの事で、今は中には誰もいない。
一瞬の間に、見た、だけでは無く、ざわめきも聞こえていた。

教室のドアを乱暴に開け、教室を出る。
階段を三段飛ばしで降り、職員室と書かれた部屋に入る。
先生が座る机が当たり前のように並んでいる。

「どうした?志摩」

ハッと後ろを振り向く。
誰もいない。
だが確実に覚えのある声。

「志摩ー!帰るぞー!」

また聞こえた。
聞こえた場所、下駄箱へと急ぐ。
やはり誰もいない。

「ゴールはこの世界に存在しない、この世界はいつでも変化出来る、ゴールを忘れている、……きっかけ」
「志摩ー!」

怒ったような声。
どこかで聞いた事のある懐かしい声。

「田島?」

気づけば声に出ていた。
田島、誰だろうか。
思い出せそうで思い出せない。
ただ、確実に分かるのは、田島という人物を知っていると言う事。

「この世界はいつでも変化出来る」

呟いて大学を飛び出した。

鉄骨はやはり落ちてはいなかったが、その事については全く問題では無い。
大学を飛び出してから真っ先に来たのはこの建設途中のビルだった。
ここに来た時、完成した時の姿が思い浮んだ。
そして今、その完成した姿が目の前にあった。

「この世界はいつでも変化出来る、つまり、俺の記憶によって変化する」

ゆっくりと、自分に説明するように喋る。

「ゴールはこの世界に存在しない、いや、確かに存在している。ただ俺の記憶が戻らなければそれは存在しない」

分かった事を、繋げて行く。

「ゴールを忘れている、それはつまり、記憶を忘れていると言う事。逆に言えば、記憶は、ゴール」

出口が見えてきた。
だが、完全に思い出した訳ではない。

「今の所古い記憶は多少は思い出せる。なら、一番新しい記憶」

ハッとして、走り出す。
一番最初に轢かれた横断歩道。
これは別に轢かれた訳では無い。
ぎりぎりで避ける事が出来た。

二つ目の鉄骨が落ちてきた事。
丁度休んでいる人がいたため、二つめの鉄骨が落ちて来た時、咄嗟に抱き抱えられ、助けられた。

三つ目の、女が自殺した時、最後にあんな事を言ってはいなかった。
最後に言った言葉は、御免なさい。
それが誰に対してかは分からなかった。

「君はつくづく不幸な人だね……か。あの野郎、あれもヒントかよ」

辿り着いた場所は一番最初、この世界に放り出された裏路地。
そこから、ゆっくりと、来た方向とは逆に歩く。

覚えている。
ここは何時も通っている近道みたいな物だ。

そして三分程歩いて着いた場所は、一つのアパート。
二階に登り、ポケットを探る。
今までは感じなかった重みがポケットに現れた。

ポケットから取り出した鍵でドアを開ける。
汚い部屋だ。
麦茶は出しっぱなしで、布団も敷いたままだ。
台所は玄関からでも十分に見えるが、洗い物が溜まっている。

「俺の部屋、か」

ふと、左の壁を見る。
カレンダーがあった。
今年のカレンダーで、19日の日曜日に何かが書いてある。

「待ち合わせ?誰と?」

19日、自分の記憶が無くなったのはいつだろうか。
それさえ思い出せない。

「じゃあ志摩、明日な!」

急いで外に出て、下を見る。
誰もいない。

「明日?あれは、田島。……そうだ。田島との待ち合わせだ」

ドアを閉めずにアパートを出る。
下に降りて、記憶にある駅まで向かう。
駅までは歩いて15分、走って5分の場所にある。

走っている間、時たま見える人々、聞こえるざわめき。
その全てを知っている。
全てをやっと思い出した。

「きっかけは、田島か。あのおせっかいが」

微笑しながらも足は止めない。
が、駅が見える十字路で、足を止めた。
この後の記憶が無い。

この十字路で何があったのだろうか。
この十字路を渡っている時に何かが起こるのだろうか。
この十字路を渡ろうとした記憶はあった。

いくら躊躇しても、答えはでず、ただ時間が経つのみだ。
声は言った、時間も余り残っていない、と。
覚悟を決め、横断歩道を渡る。

「志摩!遅いぞ!」

風が吹いた。

耳に聞こえる悲鳴。

右を向くと車が一台こちらに向かって来ている。

中の人は眠っていた。

体に響く衝撃。

一瞬にして何が起こったのか分からなくなった。

風が吹いた。

見上げれば青空。

目を閉じれば漆黒。

「思い出した?」

目を開けても漆黒だった。
更に忘れていた声をまた聞くはめになっている。
ゆっくりと体を起し、周りを見渡す。
漆黒以外、言いようが無い。

「思い出した。俺は、最後に結局轢かれたんだな。今日、19日に」
「そう、君は轢かれて、今病院で手術を受けている。轢かれた後、田島君が直ぐに病院に連絡。病院に君が着いたのはそれからおよそ45分後。手術の用意はとっくに終わっていたから直ぐに始まった」
「そしてその手術中に俺は自分の記憶の中で彷徨っていたと」
「半分正解半分はずれ。確かにここは君の記憶の中だったけど、正確に言えばここは生と死の狭間」
「ようするにアレか。死にそうだった人が見る三途の川とかそう言う類の物か」
「違うね。死んだものは此処で必ず彷徨う。ただちゃんとここから出た時はここで起こった事は全く覚えていないだけ。テレビや小説で三途の川だあーだこーだ言ってるからそう錯覚しているだけだよ」
「要するに俺が起きた時には俺もこの事は覚えて無いと」
「そうだよ」

酷く、脱力感を覚えた。
今までやってきた事は一体何だったんだろうか。

「何故記憶を戻さないといけないか、それはね、生きる気力の為だよ」
「気力?」
「そ、記憶があれば生きたいとか思えるでしょ。逆に記憶が無いと此処がどこだか分からない、つまり自分が死んだかどうか分からないんだ。要するに自分はまだ生きていると思っているんだ」
「……記憶があるだけで生き返れるかどうかは良く分からないが、最初から教えてしまえば良いだろう」

声は直ぐには答えなかった。
最初に会った、いや、聞いた時もこんな間があった気がする。

「言ったでしょ。これはゲーム。性質が悪くて、この世で一番最悪なゲームだよ」
「待て、じゃあこのゲームを立案したのは誰だ」
「誰だろうね。さ、時間だ。起きた時にはここの事は全く覚えて無いけど、いい経験になったんじゃない?」
「逆だ」
「皆そう言う」

声の笑う声が聞こえた。
その間、自分の瞼が重くなっていく気がする。
いや、気がするのではなく、実際そうなのだが。

「立案者ね。閻魔様とか」

最後に声はそう言った。



「志摩ー!お見舞いのリンゴだ!食え!」
「五月蝿い。病院内では静かにしろ」

妙にでこぼこのリンゴを突き出す田島を軽くあしらい、天井を見上げたまま田島の声を聞く。
入院して三日目、気づけば自分は病院のベッドの上で寝ていて、側には家族がいた。
何が起こったかを田島に聞き、その後全治3ヶ月と知らされる。

それから自分はとても危険な状態だったとも言われた。
事故にあった日は混んでいなかったらしく、すんなりと病院に行けたのが幸いしたらしい。

「志摩!聞いてるのか!」
「五月蝿い黙れ。聞いてるからもっと静かにしろ」
「ああ、はいはい、悪うござんしたね。相変わらず五月蝿い義兄弟で」
「誰が義兄弟だ」
「酷い!いつからそんな薄情に!お兄さん悲しい!」

ハンカチを噛みながら身をよじらせる目の前の男。
目尻には涙を溜めている。
はっきり言って気持ち悪い。

「止めろ。で、なんだったっけ?」
「はぐらかしたな。まあいい。で、死にそうになった時三途の川とか見た?」

何故か目を輝かせながら聞いてくる田島。
何故そういう話が好きなのか理解は出来無いが興味本位と取っておこう。

「バーカ。そんなの無いに決まってるだろ」

隣からブーイングが聞こえるが全て無視。
その時、開けた窓から風が吹いた。
妙に懐かしいような、思い出したく無いような風だった。




後書き